KIYOMI SOKOLOVA-YAMASHITA

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ソコロワ山下聖美 文芸研究室

「南方従軍ノート」によると、
林芙美子は1942年11月24日の午後2時に
セレンバンに到着し、
「フジヤ」にて食事をしたり、
日本人と会ったり、日蓮宗の寺「光徳院」
を訪れ、軍人の墓を見たりしている。
現在のセレンバンの町並み。
serenbanmachinami.jpg
まずは町の博物館へ行く。
hakubutukan7.jpg
これはまさに、スマトラでよく見た
ミナンカバウの様式の建物。
ここもまた、ミナンカバウ文化色の強い場所なのである。
職員の方に聞いても、
日蓮宗の寺「光徳院」の
ことはまったくわからず。
 
terachgai.jpg
これは70年ほど前に建てられた、町でもっとも
古い寺だが、もちろん、日蓮宗の寺ではない・・・
近くに住む女性(80)
に聞いても「わからない」とのこと。
kiku7.jpg
ちなみに、この女性の口から、
日本軍の大虐殺の話が出た。
セレンバンを含むヌグリ・スンビラン州は
日本占領時において、もっとも
悲惨な虐殺があったとされる場所。
日本軍の侵攻とともに、悲惨な戦争の歴史が
刻まれた場所の後追いをしていた林芙美子。
芙美子が軍の派遣であったことを、改めて実感した。
とくに、シンガポールからマレーシアにかけては
芙美子の中で、軍の派遣としての意識が強い。
インドネシアに行き、地元の人々と触れて
この意識が少々うすまっていくような気がするのだが・・・

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