12Sep
林芙美子は1943年3月3日に
ジャカルタから飛行機でパレンバンに到着。
3月4日に日本語学校・瑞穂学園にて講演を行っている。
このときのことを、日記メモや「スマトラ 西風の島」
い記している。
また、瑞穂学園の生徒たちが書いた芙美子の講演録と感想が
残っている。
この瑞穂学園について、
パレンバン在住の歴史に詳しいモッタさんに聞き取り調査。
モッタさんは、パレンバンのパラディスホテルのオーナーで、
作家でもある。著書は50冊以上。
モッタさんは、1928年4月3日生まれ。
日本軍にひどい目に合わされたので、
日本に対してのイメージはあまり良くないという。
しかしながら、私が日本語で「瑞穂学園」のことを
説明していると、「ミズホガクエン」の単語にだけ反応されて
知ってる、知ってる、とのこと。
瑞穂学園についてのモッタさんの証言は以下の通り。
・生徒は13歳以上の男子だけ
・6カ月の修業期間
・授業は日本語と体育だけ
・公務員になりたい人が行った
・日本軍が占領した1942年2月から約1年後に創設され、
約3年間存続した(その後は義勇軍の学校になった)
芙美子の記述とほぼ一致する。
なんと、モッタさんの従兄弟(すでに亡くなっている)
が瑞穂学園の生徒だったという。
(しかしモッタさんは日本語学校などに通った従兄弟について
あまりよく思っていないようだった・・・)
ちなみに、その従兄弟の息子は現在の州知事。
さらに面白いことに、当時17歳だった従兄弟の名前は、芙美子がもらった
作文に書かれている名前のうちのひとつと一致している。
(しかしよくある名前らしい)
今後、綿密に調査の必要あり。