CATEGORY林芙美子の南方従軍現地調査2011
ジャングル・・・
ブキティンギには日本占領時に 陸軍第25軍の参謀本部があった。 そして、今でも残る、日本軍がつくった トンネル。観光名所となっている。 全長1キロにも及ぶという。 入ろうとしたけれど、電気が壊れており、 係員の人が懐中電灯で案内すると言わ…
林芙美子が見たブキティンギの競馬場
林芙美子の手帳には、ブキティンギ滞在中の 3月18日に「競馬」という記述がある。 ブキティンギに1940年代に競馬場 はあったのか・・・ありました! 現在は、競馬場というよりも、 練習場として使用されている。 林芙美子はここから競馬を…
高原の町、ブキティンギ
高原の町、ブキティンギに到着。 林芙美子は1943年3月12日にブキティンギに 到着し、3月19日まで滞在したとみられている。 パダンは死ぬほど暑かったが、 ブキティンギは涼しくてとても過ごしやすい。 …
スマトラ スピリット!
海の町、パダンから、二時間ほど車を走らせる。 高原の町、ブキティンギへ向かう。 パダン、ブキティンギは、 西スマトラの主要な町。 人種は、ミナンカバウ人が多い。 ミナンカバウ人はマレーシア人との 縁が深く、 「ジャワよりのマレーシアの方…
イナ・ムアラ・ホテル(旧大和ホテル)とパダン国立大学
林芙美子は、1943年3月8日にパダンに到着し、 軍指定の大和ホテルに滞在している。 大和ホテルは、現在のイナ・ムアラ・ホテル。 地震で倒壊してしまい、 現在はリニューアル中。 このように、パダンの街にはまだ、地震によって 倒壊した建物も…
メダンからパダンへ移動
メダンからパダンへの移動日。 国内線は、地元の人々でごったがえしており、 チェックインカウンターもまるでバーゲン会場のように 人がひしめいている。 熱気にやられそう・・・ 言葉もよくわからず・・・ しかし外国人にはやさしいので いろいろどう…
フェイスブックはじめました
インドネシアの方々はほぼ皆フェイスブックをしているので 私もはじめました。 本日はフェイスブック三昧と、 学生の夏期課題レポート読みと 睡眠。 「体力温存」が合言葉。 食べ物はひたすらこんなもの。 スシテイに通い、日本食ばかり食べてます。…
メダンにて
庶民の生活が垣間見えるパッサール(商店)。 林芙美子も行く先々の町で パッサールを見学し、ちょこまかと お買いものしている。 私は、行く先々の町でモスクを見学。 モスク見学スタイル。 マイムーン宮殿。 王族末裔たちが、ちょと遅いレバラ…
林芙美子とメダン
南方派遣時の林芙美子の手帳には、 3月21日に「メダン」の記述があり、 その後は空白、27日に「ブラスタギ」 28日に「スイスホテル」、 29日に再び「メダン」の文字があらわれ 空白が続き、4月17日に「アチェ」とある。 そしてさらに空白が…
北スマトラ大学
メダンの北スマトラ大学、文学日本文学学科を訪問。 先生方と。 図書館。大きい。 見学しているときも、ここ数日の体調不良による へろへろな状態が続き、さらに飛行機での移動のときによくなる 耳の違和感がともなってきて、 いったん、お昼寝・・…
スリヴィジャヤ・ポストの記事、第二弾
昨日のスリヴィジャヤ・ポストに今回の調査の記事の 第二弾が掲載される。 シリーズ化してくれるというから 有難い! モッタさんに聞いたときのことで、 現在の州知事のお父さんが瑞穂学園に 通っていたことがわかった、 という見出し。 州知事が…
パレンバンにて林芙美子の種をまく
さてこれはおととい食べた夕食。 インドネシアのマックにはこんなメニューがある。 しかしホテルに持ち込み、食べようと思っても いっこうにのどを通らない。 昼も食べなかったのにおかしいなと思っていると あっという間に発熱。 その後は激しい下痢…
パレンバン日本人会会長・塚平さんと、イバ大学の松野先生
パレンバン日本人会会長の塚平さんに お会いする。 おなじみリンダさんと、塚平さん。 塚平さんは日本大学の先輩でした! 現在、パレンバンには日本人は20人ほどしかいないという。 以前と比べてぐんと減り、 またもや韓国におされ気味の話をうかが…
パレンバンで林芙美子が滞在したホテル
林芙美子は「スマトラ 西風の島」 の中で、パレンバン滞在中のホテルについて 記述している。 ホテルの二階に宿泊し、窓からは近くの池が見え、 瑞穂学園の生徒たちが池の周りを行進していたのだという。 当時からあるホテルで、 日本軍関係者が多く宿…
パレンバン副市長とお笑い芸人の方々
手がかりを求め、パレンバンの博物館へ。 ここでジャカルタから来ていたテレビ番組取材班の方々と 出会う。 彼らはインドネシアの様々な王朝をめぐる番組を作成中だという。 話しているうち、ランチをいっしょに、ということになり、 案内された場所には…
SEKOLAH TINGGI ASING METHODIST PALEMBANG
サップリさんの紹介で、外国語大学の SEKOLAH TINGGI ASING METHODIST PALEMBANGへ。 ここに日本語学科があるので何か手がかりがあるかも、 とのこと。 ヌルジャナ先生。 どこか林芙美子に似ているような・・…
聞き取り調査(アミヌディンさん)
アミヌディンさん(81)に聞き取り調査。 日本占領時に日本語学校に通っていたという ことで、聞き取りをさせていただいたのだが、 瑞穂学園ではなく、パレンバン郊外のプラジューという 町の日本語学校であることが判明。残念。 しかし、日本語学校…
モッタさんの証言による、パレンバンの瑞穂学園
林芙美子は1943年3月3日に ジャカルタから飛行機でパレンバンに到着。 3月4日に日本語学校・瑞穂学園にて講演を行っている。 このときのことを、日記メモや「スマトラ 西風の島」 い記している。 また、瑞穂学園の生徒たちが書いた芙美子の講演…
﨏敏さんの SS Japanese Langage School
日本占領時にパレンバンにあった日本語学校・瑞穂学園についての 手がかりを探るため、SS Japanese Langage Schoolへ。 ここは﨏敏さんが1970年代に建てた パレンバンでは有名な日本語学校。 残念ながら﨏さんは5年前に8…
「スリヴィジャヤ・ポスト」 一面と七面
「スリヴィジャヤ・ポスト」一面。 調査に来たことを記事にしてくれました。 七面にも。 芙美子が瑞穂学園の生徒にもらった作文 に書いてある名前を掲載していただいたので、 本人か、そのご家族が見ていることを祈ります。 …